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時間観光局 規則第七条
カメラを構える癖が、五年経っても抜けない。
左手を前に出して、レンズの下を支える。右手でボディを保持する。業務用ハンディカムの重さ——三キロ弱——を、体が覚えている。もうカメラは持っていない。持つ理由もない。でも廃墟の前に立つと、自然とこの姿勢になる。
ここは五年前、私が最後に「記録」をした場所だ。
小さな雑居ビルの倒壊現場。死者三名。そのうち一名は、私がカメラを回している目の前で、瓦礫の下で息を引き取った。カメラは重かった。左腕が痺れた。でも下ろさなかった。回し続けた。
「助けて」
今でも夜になると聞こえる。あの声が。
私は何もしなかった。カメラを回し続けた。腕が痛くても、下ろさなかった。それが仕事だと、自分に言い聞かせた。救助は専門家の仕事。記録は私の仕事。その映像は賞を取った。でも——
震える手を、ポケットに突っ込む。
なぜここに来たのか、自分でもよく分からない。ただ最近、この場所で「何か」が見られるという噂を聞いた。幽霊、だという。
笑える話だ。幽霊がいるなら、あの人はここに現れるはずだ。でも私が何度来ても、何も——
「……あれ?」
視界の端に、人影。
廃墟の中、崩れた壁の向こう側。誰かが立っている。
作業員だろうか。いや、この現場はとっくに封鎖されている。不法侵入者?
私は近づく。影は動かない。ただじっと、何かを見ている。
「すみません」
声をかける。
反応がない。
もう一歩近づく。影の輪郭がはっきりしてきた。男性。三十代くらい。スーツを着ている。でも——
透けている。
私の背筋に冷たいものが走る。
男は、動かない。視線は私ではなく、瓦礫の一点に向けられている。まるで写真のように、静止している。
「……あの」
もう一度声をかける。
男は——消えた。
一瞬で。煙のように。
私は立ち尽くす。
今のは、何だった?
*
翌日、図書館で古い新聞を漁った。
幽霊目撃の記録。この五年間で、同じ場所で何度も報告されている。目撃者の証言には奇妙な一貫性があった。
「同じ場所に立っている」
「同じ時間帯に現れる」
「こちらを見ない」
「話しかけても反応しない」
そして、全員が同じことを言っていた。
「透けていた」
私はノートに書き込む。パターンがある。これは偶然ではない。
そして——もう一つ。
新聞の切り抜きの中に、手書きのメモが挟まっていた。誰かが書き残したもののようだ。紙は古く、インクは滲んでいる。
『【欠損】…七条に違反し【欠損】』
『…認識され【欠損】…退避【欠損】』
七条? 規則?
何かのマニュアルだろうか。
私はメモをスマートフォンで撮影した。後で調べてみよう。
*
三日後、私は再び現場に戻った。
今度は夜。目撃情報が集中している時間帯だ。
廃墟は静まり返っている。街灯の明かりが、崩れた壁を照らしている。
待つこと三十分。
現れた。
今度は、一人ではない。
三人。いや、四人。全員が、異なる場所に立っている。でも共通点がある——全員が、同じ方向を見ている。
瓦礫の一点を。
私は息を殺す。
彼らは、動かない。まるで映像を一時停止したように。でも確かに、そこにいる。
一人の女性が、手を伸ばした。
何かに触れようとしているように見える。でも——手が、すり抜ける。
女性は何度も試す。でも触れられない。
そして諦めたように、手を下ろした。
私は思わず一歩前に出る。
その瞬間、四人全員が——消えた。
私は立ち尽くす。
彼らが見ていたもの。それは——
五年前、あの人が埋まっていた場所だ。
*
調査を続けた。
似たような目撃例は、他の場所でも報告されている。共通点は「歴史的事件の現場」だった。
事故。災害。事件。
人が死んだ場所。何かが起きた場所。
そこに、彼らは現れる。
私は仮説を立て始めた。
彼らは何かを「観察」している。記録している。まるで——観光客のように。
でもそれは、どこから来た観光客なのか?
私はあのメモを思い出す。
『規則第七条』
何の規則だ?
*
一週間後、私は別の断片を見つけた。
ある研究者のブログ。三年前に更新が止まっている。最後の投稿に、こんな記述があった。
『時間観光について、いくつかの仮説がある。もし未来の技術で過去を観察できるなら、彼らは何を見に来るのか。そして——なぜ干渉しないのか』
時間観光。
未来から、過去を見に来ている?
馬鹿げている。でも——説明がつく。
なぜ彼らは透けているのか。なぜ触れられないのか。なぜ同じ場所、同じ時間に現れるのか。
過去に干渉できないように、技術的に制限されているとしたら?
私は震える手で、新しいメモを書く。
『観察者。未来から。干渉不可。規則?』
*
現場に通い続けた。
彼らは毎晩現れる。同じ場所。同じ時間。
でも、ある夜。
一人だけ、違う者がいた。
他の「幽霊」は皆、瓦礫を見ている。でもその一人だけは——私を見ていた。
視線が、こちらを向いている。
私は凍りつく。
他の幽霊とは何かが違う。目の色が、違う。表情が、違う。
それは——怒っているように見えた。
いや、違う。
泣いているのか? 笑っているのか?
表情が読めない。
そして、近づいてくる。
私は後ずさる。
「何だ、お前は」
答えはない。
ただ、近づいてくる。
逃げようとした瞬間——それは消えた。
私は息を整える。
今のは、何だった?
*
翌日、私は古書店で一冊の本を見つけた。
タイトルは『時間旅行の倫理』。著者不明。出版年も記載がない。
ページを開く。
そこには、規則が列挙されていた。
『規則第一条:観光客は過去の事象に干渉してはならない』
『規則第二条:過去の人間と接触してはならない』
『規則第三条:【欠損】』
ページが破れている。
次のページ。
『規則第七条:過去の人間に認識されてはならない。万が一認識された場合、即座に該当時代から退避すること』
退避。
だから彼らは、私が近づくと消えるのか。
認識されたから。
でも——なぜあの一人は、消えなかった?
*
その夜、また現場に行った。
今度は覚悟を決めていた。あの「違う」幽霊に会うために。
待つこと一時間。
現れた。
他の幽霊たちも、いつも通りそこにいる。でも一人だけ、私を見ている。
今度は逃げない。
私は一歩前に出る。
「お前は、誰だ」
それは答えない。
ただ、じっと見ている。
私はもう一歩近づく。
「なぜ、他の奴らと違う? なぜ消えない?」
それは——首を振った。
言葉がない。
でも何かを伝えようとしている。
手を、伸ばしてくる。
私は動けない。
その手が、私の肩に——
すり抜けた。
触れられない。
でも、何度も試す。必死に。
なぜ?
その顔を、私は凝視する。
三十代。男性。やつれている。目の下に隈。
そして——気づく。
この顔。
知っている。
鏡で見る、顔。
私だ。
私は一歩後ずさる。
未来の——私?
それは何も言わない。
ただ、手を伸ばし続ける。
私を——掴もうとしている。
いや、違う。
殺そうとしている。
*
私は走った。
廃墟から、街へ。人がいる場所へ。
振り返る。
誰もいない。
夢か? 幻覚か?
でも——あれは確かに、私だった。
*
次の日、私は図書館に戻った。
あの本をもう一度探す。でも——見つからない。
代わりに、新しい断片を見つけた。
インターネット上の、匿名の投稿。
『時間観光局は、一部の事例を把握していない。規則第七条に違反しても退避しない個体が存在する。理由は不明。マニュアルに記載なし』
時間観光局。
それは、本当に存在するのか?
*
一週間、私は現場を避けた。
でも——夜になると、声が聞こえる。
「助けて」
瓦礫の下の声。
いや、違う。
別の声も混ざっている。
誰の声?
私は——もう一度、あの場所に行かなければならない。
*
月のない夜。
私は廃墟に立っていた。
幽霊たちが、現れる。
いつも通り。瓦礫を見ている。
そして——あれも、いた。
未来の私。
今度は逃げない。
私は正面から向き合う。
「お前は、何をしに来た」
答えはない。
「未来の、私なのか」
それは——頷いた。
私の心臓が、早鐘を打つ。
「なぜ、私を殺そうとする」
それは、何かを言おうとした。
口が動く。でも——声が出ない。
いや、聞こえない。
そして——諦めたように、首を振った。
言えない。
なぜ?
それは、また手を伸ばしてくる。
でも今度——手が、一瞬止まった。
なぜ?
理由が見当たらない。
ためらい? 慈悲?
分からない。
そして再び、手が動く。
私は叫ぶ。
「来るな!」
それは——消えた。
いや、消える前に。
一瞬だけ——何か言いかけた。
聞こえなかった。
*
私は膝から崩れ落ちる。
見られている。
未来の、私が。
殺そうと。
なぜ?
言わなかった。
死にたい、ほどの。
何かを。
私は、これから。
でも死ねない。
だから過去に。
見られている。
今も。
誰かが。
瓦礫の下の、声。
「助けて」
あの人も?
見られて?
カメラを、回して。
私も、見て。
未来も、見て。
でも誰も——
観察。
され。
続け。
逃げ場は——
いや、そうじゃない。
何が?
観察。
する。
された。
どっち?
言葉が。
(了)